モノクロの世界

せくしーぞーん、ぶいしっくす、時々はいはいじぇっつに落ちたアラサーの人。元バンギャ。

7周年おめでとう

10年ぐらいやっていて、今は稼働していないアメブロ

昨年8月に気まぐれに書いた記事を読み返した。

マリウスがフラーハウス出演が決まった日。

あの情報、本当だったのかぁと嬉しく思いながら、

生きていたら面白いことがあるもんだなぁ

と、サラッと思った。

そう思えたことに何度でも感謝している。

わたしはこの先ずっと彼らが駆け上がる様を見ていたいと思っている。

ありがとう。

Sexy Zone7周年おめでとうございます🌹

二十日鼠と人間〜わたしの為の備忘録〜

まさか初はてブロが舞台の感想になるとは思わなかった二十日鼠と人間のお話。ほぼわたしの備忘録だから、もし読む方がいたら、めちゃくちゃな文章ですみません…しかない。

 

二十日鼠と人間」は1930年代、世界恐慌時代のアメリカの話。時代背景がわからなくなりたくないから原作読もうと事前に読了。

 

号泣した。

 

これを、健くんが演じるのかと、複雑な思いで当日に挑んだ。

 

ここからは、項目で書いていきます。

 

 

ジョージ

ジョージが根が優しいと思ったのは、幼い頃、レニーに川に飛び込めと言って飛び込ませた後に、カナヅチで溺れたレニーをジョージが助けたらレニーは飛び込みをさせられたことを忘れて、助けてもらったことにずっと「ありがとう」と言って、それ以来こいつをからかうのは止めようと決めたというエピソードだった。

この時に

「こいつは俺の言いなりになる!使える!」

と思ってもおかしくない。一生子分扱いも出来たはず。

けど、ジョージはレニーの素直さに自分を振り返って、自分が恥ずかしくなったんじゃないか。だから、レニーを同等かもしくはそれ以上として受け入れたんじゃないか、そして、レニーをバカにするなら周りから守りたいと思ったんだと思う。

それでも確かに、ジョージはレニーに頼られていた分、かっこつけていたとも思う。夢を語ると、それに目を輝かせるレニーがいてくれる、自分を肯定させる術としているようにも見える。レニーには一応身内に当たるクララおばさんがいたようだけど、ジョージは身寄りがないと言っていて、いつからどういった経緯でかはわからないけれど、それでも若い内に家族を亡くしているなら、自分を慕い、自分をヒーローにして、そして絶対許してくれるレニーは良心でもあり、拠り所だったように思う。

そして、ジョージの優しさと弱さは「俺にはお前がいて、お前には俺がいる」というのをレニーに言うところ。

コレも

「お前には俺がいる」

だけで終わっても良いのに、

「俺にはお前がいる」

とちゃんとレニーに伝えているのは、離れて欲しくないことを伝えているようで、レニーは言葉を正面しか受け取れないから、ジョージがキツく言うと「いない方が良いなら」と言う。それを投げつけずに「俺にはお前がいる」そして冒頭でレニーをなじったものの、結局ちゃんと「一緒にいて欲しい」と言う素直さは可愛くて魅力的だし、ジョージは優しさと同時に良い意味での弱いところを見せられるのも素直な”良いヤツ”なんだと思う。

あと割と早い段階で酔っているとはいえ、スリムにフィードでのレニーの不祥事をうっかり話したり、割とあっさりキャンディを仲間に入れたり(実際キャンディは良い人だから見る目はあるのかな)端々に人をすぐに信用する幼さもあるのかな。賢いし、レニーがあれだからわかりにくいけど、割と子供みたいな一面がジョージの魅力だと思う。舞台観劇後に、小説をパラパラと読み返したらやはり違うシーンはあって、クルックスの部屋でレニーとキャンディが話していた時にジョージが1人待ちから戻って「あんなことに金を使うより将来に使う方が何倍も良い!」と話していたのは、よりジョージの良い人柄が出ていて舞台の方が良かった。劇中、賢いと言われるジョージだけど、わたしはレニーがいるから賢い面が際立ち賢さが身についただけで、叶わない夢を見続け優しさと弱さと幼さがある人に見えていた。

 

レニー

章平さんが鈴木裕美さんに「子供だと思って演じて」と言われたというのを読んだ時に、合点いった。わたしも章平さん同様、知的障害だと思っていたし、実際原作もそのつもりで描かれているし、もちろん鈴木裕美さんもわかっていて「子供だと思って演じて」だったからこのレニーなのか!と思った。冒頭「俺がいない方が良いなら洞穴見つけてそこで1人で暮らす〜」は、拗ねた子供のような言い回しに、ちょっと自分のイメージと違うな〜と見ていた。それが良い悪いじゃなくて、コレが生身のレニーかと思った。その後も、ただ子供のようにひっくり返り、怯え、目を輝かせるレニーはとても可愛かった。レニーの状態がどの程度かはわからないけれど、犬持っていないと嘘をついたりと、全くの無垢というわけではないから、ジョージに「一緒にいたい」と言われたくて1人で暮らすと言っているようで、それが拗ねた子供みたいでより思っていたレニーと違うことが、わたしには魅力的だった。

 

カーリーの妻

個人的に彼女のことは書きたかった。同性だからかな?割と感情移入したのがカーリーの妻。名前すらない彼女。小説と違うセリフでグッときたのは、友達になりたいだけならどうして男に媚びるんだとジョージになじられた時に「だって気に入ってもらいたいから」という台詞。女として言った台詞じゃなくて、単純に仲良くなりたい、話したい、ただそれだけなのに、やり方わからない故に間違えて…ストレートな言葉があまりに悲しく、寂しく響いた。

仲良くなりたいからプレゼントを沢山するみたいな上辺のやり方しかわからないカーリーの妻。可愛らしく周囲からチヤホヤはされてきたけど、女優になれる程の実力もなく、その中途半端さで人間関係の築き方がわからなくなっていたような気がする。カーリーの妻にレニーは何も気にせず接するから会話が子供みたいで、実際レニーはただ聞いていないだけなんだけど…でも、みんな子供みたいなんだよね、大人が現実を受け入れて言わなくなった事を口にする、子供みたいな姿が、余計せつない。

 

ジョージとレニー

共依存の関係、と、観る前から知っていた。でも、符号は物凄くジョージが強い気がする。レニーは素直な人間だ。ジョージがずっとそばに居て、転々と暮らすから人間関係を築くも何もないけど、好き!と思った人間にはジョージと同じように接するだろう。この生活じゃなければ、この関係が保つこともなかった気がする。

 

 

三宅健とジョージ

三宅健を溺愛すると公言したSnow Man佐久間くんが「ジョージ=健くん」と言った。冒頭の台詞、健くん言いそう!と思いながら聞いていたと言った。

”言いそう”じゃなくて、もはや佐久間くんは言われているよね?「うざいよ〜」「お前あっち行け」と佐久間くんに言う。でも、健くんは佐久間くんが絶対自分を好きでいてくれる確信があるから強く言えるんだと思う。それは佐久間くんだけじゃなくて、メンバーにしてもますむぅにしても、自分を好きでいてくれる相手には自由に感情をぶつけている。勿論、ジョージ程に激しくはないけど、佐久間くんの誕生日にラヂオで電話した時に電話口から笑う佐久間くんの声は嬉しそうなのと同時に、ツンデレな健くんを受け入れている優しい声で、あぁ健くんは大好きに思われているってわかっているから佐久間くんにこうなんだよなぁと思った。健くんという人を、物凄く片寄って強調させたらジョージになるようで、そう思うとジョージにも健くんにもせつなくなった。

 

最後へ

カーリーの妻を死なせてから、どんどん悲しい結末になっていく。

わたしはスリムが「俺…1人で行こうか…?」とジョージに問い、俯いたまま頷いたジョージ(健くん)の背中が忘れられない。

座り込んで泣きながら手で顔を覆いレニーに「一緒にいたいよ…」と言うジョージ(健くん)が忘れられない。

ジョージ自らレニーに手をかけた解釈は色々あるけど、なんだろうな、繋いで檻に入れておいてはダメか?と懇願するジョージ…生きては欲しい気持ちの方が勿論あった…ただ、他人に殺されて悪者で終わらせるのも辛かったのかな…だって、レニーは何も悪くない。ただ、それを知っているのはジョージだけ。檻に入れて一生過ごすレニーが幸せでないこともわかっているジョージ。ウィードに続いて2回目の問題が起きて、また逃げることも出来たとは思う。でも、もうジョージも辛かったんじゃないだろうか。大好きなレニーが自分の手に負えなくなることが。

どうやっても”2人で”幸せにはなれない。ジョージはソレが叶わないこともわかっていた。ジョージにとって1番大切なのは「レニーと自分2人で幸せにはなること」だったと思う。だから、わたしはレニーを失ったジョージは天変地異でもない限り、夢は語らることもなく、他の労働者と同じように淡々と働き、一生を終えていくと思っている。大好きな人に、自ら手をかけてまず普通の状態ではいられない。もしかしたら、ジョージが丘の向こうの洞穴で一生1人で暮らすかもしれない。

原作は、レニーを打った後に、スリムが飲みに行こう…と慰めて終わったけど、舞台は打った瞬間幕を閉じた。正直、わたしは舞台のラストの方が好きだ。

 

 

 

 

ひたすら重たいことを書いたけど、楽しいときは本当に楽しくて、ジョージも楽しそうにするし、レニーはあんな感じの反面、とても相手の感情に敏感だと思うから、ジョージが楽しいとレニーも嬉しい。そんなひと時も良かったな。ホイットやキャンディが面白おかしく話す場面では会場にも笑いが起きていたし、わたしも楽しく笑っていた。

 

 

 

観終わった時には、会場で肩を震わせて泣いていました。声が出ないように泣くのに必死だった。周りもみんな、泣いていた。私は、この登場人物たちの結末に救いは見出せなかった。でも、きっとそういう人生を送ることが、特別でもなかった時代なのかな。誰も悪くないし、誰も幸せじゃない。誰もがこの登場人物の誰かの孤独の破片に引っかかると思う。だから、会場みんな涙したんだと思う。わたしは、ジョージの悲しみに泣いて、ジョージに共感して泣いた。ジョージたちに先はないけど、その姿を見た自分はどうなのかと何かと向き合っていける作品だった。

 

ずっと気になっていたけど、ジョージとレニーが約束をする時に、手話なら「き」を現す手の形をしていたの、アレきっと何か意味があるんだろうなぁと思っているから、これから先も考えていきたい。

 

きっと、わたしも年月を重ねるごとに「二十日鼠と人間」を思い出しては、もしかして、ここはこうだったかも?と色んな解釈をしていくかもしれないけど、今思ったことは残しておきたい。

 

 

そして、ジャニヲタになって、沢山知らない世界に触れて、日々感謝している。